[カテゴリー:日々是哲学]
#問いの答えが、事実の記述でない場合の一つは、価値判断である場合である。
価値判断については、認知主義者は、事実と同じく価値は実在しており、認識の対象であると考える。そして価値判断は実在する価値の記述であり、真理値を持ちうる。それゆえに、価値判断は合理的な判断である。
価値判断について、非認知主義者は、事実についての認識に価値を付与する仕方で、価値判断を行う。つまり、価値そのものを認知するのではなくて、価値は付与されるもの、ないし構成されるものだと考えるのが、非認知主義である。したがって、価値判断は真理値を持たない。ただしこの場合でも、価値判断は恣意的なものではなく、似たような対象については似たような価値判断をすべきだと考えられている。その限りで、価値判断には何らかの従うべき基準があり、それに従う限りで合理的な判断である。
認知主義であれ非認知主義であれ、似たような対象については(似たような状況では)、似たような価値判断をすべきであろう。したがって、価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である。
#問いの答えが、事実の記述でない場合のもう一つは、実践的推論の結論の場合である。
「xするにはどうしたらよいのか?」というような問いに対して、実践的推理によって答える場合である。これの答えは、真理値を持たない。むしろ、「…すべし」という指令になるだろう。理論的推論ではないが、これもまた推論による答えである。そして、この実践的推論で答える答えもまた合理的である。
問いの答えは、それが価値判断である場合も、実践的推論の結論の場合も、正当化可能なものであり、その内容は合理的なものでありうる(もちろん不合理なものの場合もある)。
では、問いの答えが正当化と無縁であるような場合はないのだろうか。